いま、「人的資本経営」という考え方に注目が集まっています。人的資本経営とは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方(※1)」のことです。
少子高齢化やデジタル化、コロナ禍など、企業経営や個人の働き方を取り巻く環境が大きく変化する中、企業が持続的に価値を高めていくため、人的資本の重要性が高まっているのです。
なぜ、企業が人的資本経営に取り組む必要があるのか、具体的にどう取り組んでいくべきか。一般社団法人サステナビリティコミュニケーション協会代表の安藤光展さんにお話をうかがいました。
※1 経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~人材版伊藤レポート~」より
サプライチェーン全体にかかわる「人」を資本としてとらえる
稲葉編集長:2020年9月、経産省が「人材版伊藤レポート」を公表して以来、企業の経営者や人事担当者から「人的資本経営」という言葉を聞く機会が増えました。安藤さんは10年以上前から、企業の社会的責任やサステナビリティ経営の問題に取り組んでおられます。潮目が変わったきっかけとして、何か感じていることはありますか。
安藤光展さん(以下、敬称略):私が独立して現在の活動を始めた十数年前は、まだサステナビリティという言葉が一般的ではなく、CSR(企業の社会的責任)推進支援という表現をしていました。「社会貢献が重要なのはわかるけれど、利益につながるの?」という見方をする人が多かった時代です。流れが変わったのは、2018〜2019年ごろからです。ESG投資(※2)の盛り上がりとともに、国内外で大きな変化が起こったと感じています。
欧米では2010年代の半ばから、ESG情報の開示に関する法制化が進み、それに伴って投資家の意識も変わってきました。投資家が企業にサステナビリティを求めるようになり、そのプレッシャーによって上場企業が変化したと考えています。2023年以降はさらに人的資本経営への注目が集まり、一気に広がっていくのではないでしょうか。
※2 従来の財務情報だけでなく、環境(Environment)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)要素も考慮した投資のこと(経済産業省)
稲葉:今までの人的資本や人事戦略と、人的資本経営は何が違うのでしょうか。
安藤:人的資本というと、以前は従業員のことをさしていました。一方、近年提唱されている人的資本経営では「人」の範囲が拡大し、取引先やお客様までを含むようになっているのが大きな違いだと思います。素材の調達、販売、消費までをカバーするサプライチェーン全体にかかわる「人」を資本としてとらえ、重視するようになっているのです。
日本企業には、従来の人事戦略からのトランスフォームが必要
稲葉:私たちが運営するサーキュラーHRというプロジェクトでは、人を「資源」「資本」として扱い、人材ロスをなくすという考え方を提唱しています。ごく当たり前のことだと思うのですが、日本企業は一般的に、人を大切に育てる、人の価値を引き出し高めるという点において、欧米に比べあまり上手ではない印象があります。
安藤:「人を大切にする」ことと、「人が価値を生み出せるようにする」ことは、そもそもまったく別の話です。日本には昔から、終身雇用に代表されるような「人を大切にする」文化があったかもしれません。一方、人的資本経営は「人が価値を生み出すための仕組みづくりをする」ビジネスモデルを表しています。
人的資本経営において重要なのは「アウトカム思考」だと私は考えています。例えば従業員の研修費を、1人あたり2万円から4万円に引き上げたとします。これがアウトプットです。その結果、従業員のコミュニケーション能力が向上し、チームの雰囲気がよくなって売り上げが上がったとすれば、これが「アウトカム」です。アウトカムを開示するという考え方は、従来の日本企業にはほとんどありませんでした。
アウトプットの結果、具体的にどんな成果が生まれたのかという指標を、第三者にもわかるよう示していくのが、人的資本の開示ということになります。従業員が価値を生み出し、それが企業の価値創造につながっていくよう管理する仕組みをつくることが、人的資本経営の焦点です。
稲葉:「人を大切にする」ことと、「人が価値を生み出せる仕組みをつくる」ことは、似ているようでまったく違うのですね。例えば、社員との飲み会を一生けんめいやっても、一人ひとりの価値は引き出せない。
日本企業は、近年人材育成力が落ちてきたと言われていますが、安藤さんのお話をうかがって、もともと人の価値を引き出すことに取り組んでこなかったのではないかと感じました。
安藤:1万人の従業員がいるとして、その人たちはひとかたまりの「労働力」ではなく、それぞれの個性やストーリーを持った「ひとり」が1万人集まっているわけですからね。
短期的に見ると、同質化された組織のほうが成果が出やすいのも事実です。ただ、そのような組織はあまりにも不安定で、長期的に見るとリスクが高い。結果として、それぞれの多様な特性を生かし、価値を引き出すダイバーシティを実現するほうが、企業にとってもメリットになるわけです。
日本企業には、DX(デジタルトランスフォーメーション)ならぬ、HCX(ヒューマンキャピタルトランスフォーメーション)が必要であるというのが、私の持論です。「従業員を大切にする」という従来の人材活用、人事戦略から発想を転換して、人の価値を引き出すための仕組みづくりに向けトランスフォームしていかないと、社会の変革に追いつかないでしょう。そういった意味で、「誰も置き去りにしない」というSDGsの基本理念が、今後本当の意味で実現していくことを期待しています。
SDGsウォッシュに陥らないため、企業ができること
稲葉:「労働者」という仮想の人物像を設定して、その枠に既存の人を当てはめていく、人間性を排除するやり方は、組織の短期的成長にとって効率がいいのですよね。
サステナビリティについて、日本では、現状を維持することが「持続可能性」だと思い込んでいる人がまだ多いように感じます。従来の仕組みのまま、部品だけ取り替えて「SDGsに取り組んでいます」とアピールするのではなく、根本的にアップデートさせることが必要ですね。
安藤:SDGsに取り組んでいると見せかけて実態がともなわない、SDGsウォッシュ、ESGウォッシュは、欧米の一部の国では法律違反とされています。一方、日本では紛らわしい発信をしても、社会的信頼は失うかもしれませんが、法的な罰則はないのが現状です。
稲葉:SDGsウォッシュに陥らないために、企業はどんな発信をしていけばいいのでしょう。
安藤:例えば、従業員満足度やエンゲージメントという数値がありますが、公開を前提としたアンケートに対して従業員が本音で回答しているとはかぎりません。ただ、そこに「この数字が実態に近いという根拠になるような情報」があれば、第三者から見たときの納得感が増すと思うのです。
サステナビリティは、ただでさえ数値で定量的に表現しにくいテーマです。サステナビリティに関する専門知識がない人でも理解できるよう、あるデータを示すときには「その情報が正しいかどうかを判断するための情報」も併せて開示することが、企業にとって誠意ある対応だと考えます。
サステナブルな経営には、人的資本のほかにも、設備やネットワークなど、さまざまな構成要素があります。人材のことだけにフォーカスすると「木を見て森を見ず」ということになりかねません。経営戦略と人材戦略を紐づけるなど、より高い視点で情報をリンクさせて開示することで、第三者から見ても納得感のある発信ができるのではないでしょうか。
人が変われば企業が変わり、企業が変われば社会が変わる
稲葉:近年、日本でも「パーパス」を取り入れる企業が増えています。本来のパーパスは、経営戦略全体をつらぬく「軸」になるものだと思いますが、日本企業はその点、事業についてのストーリーを語る力が弱いのではないかと懸念しています。安藤さんはパーパスについてどのように見ていますか?
安藤:前提として、組織のパーパスは企業の社会的存在意義を表すものです。この点が、企業理念を示すミッション、ビジョン、バリューとの根本的な違いになります。「顧客第一主義」はミッションとしては成立しますが、パーパスとしてはあり得ません。パーパスは、すべてのステークホルダーが納得、共感できるものでなければならないからです。
日本企業では、パーパスが企業理念的になっていることが多いと感じます。パーパスでうたっているサステナビリティが、自分たちの組織だけでなく、サプライチェーン全体にとって納得、共感できるものであるかどうか、振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
組織のパーパスに対して、個人にもパーパスがあります。両者が近いほど、個人にとっては働きがいのある職場になり得るでしょう。企業のパーパスが明確で、個人にとって意思決定の指標になっているのなら、日々の業務をこなすだけで、個人は社会に貢献することができるのです。
ですから、企業の経営陣は、社外だけでなく社内からも信頼されるように行動し、成果を出していくことが重要です。よりよい社会をつくるために貢献する製品やサービスを提供する会社が増えれば、社会が変わっていきます。人が変われば企業が変わり、企業が変われば社会が変わる。それが人的資本経営の原点だと考えます。
稲葉:ここまで、企業の視点からお話をうかがってきました。人的資本経営が重視される時代、働く個人はどんなことを意識していけばいいのでしょうか。
安藤:自分なりの基準で「ホワイト企業」を見つけ、そこで働くことが大切だと思います。例えば、それは従業員を大切にする会社であるということかもしれませんし、自分が働きがいを感じられること、社会に貢献する事業を展開していることかもしれません。
自分がある会社で働いた結果、誰かに迷惑をかけてしまったら、それはサステナブルな働き方とは言えないですよね。自分が考える「いい会社」で働けば、間接的に社会をよくする活動にかかわることができます。優秀な人がホワイト企業に集まれば、ブラック企業は自然に淘汰され、社会全体がいい方向へ変わっていくはずです。
稲葉:なるほど。会社で働くことは、自分という人的資本をその企業に投資するということでもあるのですね。今日は示唆に富んだお話、ありがとうございました。
<サーキュラーHRへのヒント>
- 人的資本経営に注目が集まるようになったのは、2018〜2019年ごろ、投資家が企業にサステナビリティを求めるようになり、ESG投資が活発になったことがきっかけのひとつである。
- 人的資本経営における「人」とは、従業員だけでなく、取引先やお客様など、サプライチェーンにかかわるすべての人を含む概念である。
- 「人を大切にする」ことと、「人が価値を生み出せる仕組みをつくる」(人的資本経営)ことは、似ているようでまったく別の話である。・日本企業には、従来の人材活用、人事戦略から発想を転換して、人の価値を引き出すための仕組みづくりに向けトランスフォームしていく、HCX(ヒューマンキャピタルトランスフォーメーション)が必要である。
【プロフィール】
一般社団法人サステナビリティコミュニケーション協会・代表理事 安藤光展
専門は、サステナビリティ経営、ESG情報開示。「日本のサステナビリティをアップデートする」をミッションとし、上場企業を中心にサステナビリティ経営支援を行う。日本企業のサステナビリティ経営推進、ESG情報開示支援、情報開示ガイドライン対応、マテリアリティ特定、ESG評価向上支援、レポート/サイトの第三者評価、など支援実績多数。各種メディアでサステナビリティについての寄稿・取材対応・出演多数。講演実績は直近10年で100件以上。ネット系広告会社などを経て2008年に独立し現職。1981年長野県中野市生まれ。2009年よりブログ『サステナビリティのその先へ』運営。著書は『創発型責任経営』(日本経済新聞出版、共著)ほか多数。Twitterアカウント:@Mitsunobu3。
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